宇宙くじらと野原のかえる

こどもとわたし、宇宙船・地球号での日々で想うこと、感じること

おばあちゃんのこと

今月11日におばあちゃんが亡くなりました。

 

いっしょに暮らしていた人が亡くなるのははじめての経験で、

お葬式が終わるまでは、なんとなく慌ただしくて賑やかで、

おばあちゃんのことをしみじみと思い返すこともなかったんだけど、

お葬式が終わった日の夜は、何とも言えない寂しさ、どうしようもない寂しさを感じた。

 

数日前までは、おばあちゃんというのは、たとえ本人の意思のもと、積極的治療をやめて看取りの段階にあると言っても、それは生きているおばあちゃんのことで、病室で寝たきりでその日を待っているおばあちゃんのことだった。でも生きていた。

 

今はおばあちゃんのことを思うと、それはもうこの世にはいない人のことで、

生きているのと、生きていないのとで、同じようにおばあちゃんを思っても、まるで違う感覚だ。

 

生きている、というのは、ただそれだけですごいことなんだな、と思う。

そして亡くなった人は、愛だけになる。

 

思い出すのは、いつも微笑んでいるおばあちゃんだ。

いつも、ぶれることなく、愛してもらっていたんだなあと亡くなってから気付いた。

私の名前を優しく呼んでくれる人だったのだ。

そういう存在がこの世からいなくなるのは、とても寂しい。

もう名前を呼んでもらえないのが、とても寂しい。

おやすみ、とか、おはよう、と言えないのがとても寂しい。

 

私は、私が勝手に想像して設定した「母のバイアス」の中にいたので、

おばあちゃんに対して、本当に私自身として、素直に接するのがとても難しく感じていた。

私が設定した「母の視点」の中からおばあちゃんに接していた。

 

でも素直になってみたら、私はおばあちゃんが大好きで、おばあちゃんから学びたいこと、教えてもらいたいことはたくさんあったと思う。

 

子供の頃、おばあちゃんの仕事部屋でもある離れで、おばあちゃんが作業をしている横で、おばあちゃんが持っていた美術書を見たり、本を読んだりするのが心地よかった。

 

貸して、と言ったら、なんでも貸してくれるような人だったし、

欲しいな、と言ったら、あげるといってくれるような人だった。

 

思春期は、おばあちゃんのことをとても煩わしく感じることもあった。

子供の頃はマナーにも厳しい人だった気がする。もうあまり覚えていないのだけど。

 

「美しくあること」をいつも目指していた人だった。

 

母や父は、また違う関係性の中でおばあちゃんのことを見ていたので、

一筋縄では行かないような関係性だったかもしれない。

 

莫大な遺産を、一世代で使い果たし、

お金も残さなかったけど、恨みもしがらみも残さなかった人なんだと思う。

さっぱりしている。

 

私は愛されていたなあと思う。

孫として、かわいがってもらっていた。

大事にしてもらっていた。

 

悔いるのは、もっと素直に、私自身でおばあちゃんと関わればよかったということ。

 

最後の最後に、おばあちゃんが脳梗塞を起こして、

入院してしまう前に、

おばあちゃんに「ごめんね、ありがとう」と伝えることができて、

その言葉に込めた意味など分かってもらえなくても、

素直におばあちゃんの前に立って、

おばあちゃんと関わる一瞬を持てたことは私にとって大切な思い出だ。

 

遺影のおばあちゃんは、おばあちゃんのいつもの微笑みで、

その写真を見ると、いろいろなことを思い出せる。

 

でも、いつかおばあちゃんの声の感じや、言葉や面立ちも記憶の中から薄らいでいってしまうだろう。それが寂しい。

 

94年という長い時間を生き抜いたおばあちゃん、本当にお疲れさまでした。

なかなか逝けなくて、最後の方は困っていたよね。

ぽっくり逝きたい、と元気なころはいつも言っていたのに、

それとはまったく違う、最後の最後まで与えられた長い時間を生き抜くことになって、

それは年をとった人には、とてもハードなことなのかもしれない。

90歳で倒れるまで、独りでバスに乗ってデパートに行くような元気なおばあちゃんだったから、

倒れてからは本当にしんどい時期もあったんだろうと思う。

私はその頃はおばあちゃんが置かれた状況が想いを理解しようともしなかった。

 

おばあちゃん、ほんとうにお疲れさまでした。

おばあちゃんにぴったりの美しい戒名を付けてもらえて、よかったよね。

肉体はなくなってしまったけれど

不思議と存在は近くに感じます。